花園の墓守由為編第六章第二話『此岸には帰らなかった』

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 ぼうっとしながら舟に乗って遠ざかる彼岸を眺めている。由為になんて声をかければいいのか七日は考えていた。いつもは由為に手を引いてもらっていたから今度は自分が発破をかけたいのだが、気軽に声をかけられる様子ではない。最初に会ったときの話しかけやすさとは大違いだ。
 彼岸を発った舟は人が五人ほど乗れるくらいには大きく、観賞用や素材として利用される花が臨時の荷物として積まれている。船頭は三十を越えただろう青年だ。
 河を見る。透明な灰色の水が広がっている下には底知れない澱があった。七日の目には見えない管が通されているようにも映り、のぞき込もうとすると船頭は手を止めないまま声で制止する。
「落ちたらひきずり上げることはできないからな。気をつけろよ、お嬢ちゃん」
「はーい。で、お兄さん。これから行く此岸はどういうところなんですか」
「わからん」
 簡潔な答えだけが返ってきた。それに沈黙を返していると船頭がやれやれ、といった調子で言葉を重ねていく。
「俺は河で生きているからな。此岸に家は一応あるが、此岸と彼岸の違いなんてものは説明しかねるよ。ちなみに俺は広兼だ。お嬢ちゃんが俺をおじさんと呼ばなかったのは賢い判断だぜ」
「どうしてですか?」
「悲しみのあまりにこの櫂を手放すことになる。そうしたらみんな河に転がり込んでいたところさ」
 冗談だろう。
 わかっていたが、笑った。由為も苦笑している。苦みが多少混じっているとはいっても笑えるのなら大丈夫だろう。安心しながら、揺れる舟に負担をかけないように七日は移動した。由為の隣へ腰を落ち着ける。
 いつからこの少年の近くにいると心が穏やかになるように変わったのか。最初は拒絶をぶつけてしまったのに、由為は一度たりとも七日を責めたことはない。嬉しくもあり、申し訳なくもある。胸の中で錯綜する感情を伝えるにはまだ言葉は足りなさすぎた。
 的確な言葉は欲しい。だが、語彙のひもじさを言い訳にして伝えることを止めたくないから、七日は由為を見つめる。話し出す気配を読み取った由為も真剣な顔になった。
「あのね。由為君」
 本当に言いたいことは違うけれど。
「悩みとか、困ったことがあるなら」
 力になれないのは悔しいほどわかっていても。
「聞かせてもらいたいんだ」
 足を斜めにして座ったまま、視線で由為を貫いてしまうのではないかと思うほど圧を注いだ。由為は驚いた顔を浮かべる。自分の表情に気付いたのかすぐに打ち消して、次に作ったのは無邪気な笑顔だ。
「ありがとう」
 一度だけならば安心できる笑顔だが、その表情の理由は感動などではなく、相手を気遣うためのものだと知っている。
 本当の由為の笑顔はもっと照れていて晴れやかだ。
 七日はまだ向けられたことのない、甘えが残った笑顔を咲かせてもらうことはできるのか。考えると由為の素顔を見ることをできているだろう貴海に対して静かな闘志が燃えてしまう。
「そろそろ着くよ」
 広兼が鐘のように声を響かせる。
 七日は自分の荷物を手に取りながら目の前の光景をよく眺めた。不鮮明だった視界が晴れていき、白い光に照らされて建物や岸辺が輝いている。
 物心ついてから訪れるのは二度目になる。
 ここが此岸だ。

 舟は岸辺に寄り止まる。揺れることのなくなった舟から下りて、由為と七日は此岸に足をつけた。彼岸と同じく岸辺から地面に下りるために作られた階段を一段ずつ踏んで下りていく。
 目前に広がるのは穏やかな世界だ。彼岸の寂しさと儚さが漂う幻の空気とは反対の、光舞い踊る鮮やかで確かな現実が存在している。朝のいま、空は明確な青色に染まっていて光が町並みを飾っている。
 此岸で舟から運ばれた荷物を仕分けしていたらしき男性は、由為に目を留めると一気に顔を緩ませた。ずかずかと大股で近づいてきて、細い首にたくましい腕を巻き付ける。
「ゆい坊! よく無事に帰ってきたなあ!」
「あ、はいっていでででで。腕離してくださいよ」
「わりいわりい。おい、みんな! 我らがゆい坊の帰還だぞ!」
 男の声をきっかけに周囲から人が集まってくる。岸辺で作業をしていた壮年の男性も、少し離れた市場で品の出来を確かめていた女性も、由為の帰還を嬉しそうに迎えていた。一気に由為の周りに人垣ができる。
七日は下り立った場所から離れずに、老若男女問わずもみくちゃにされる由為を眺めていた。
 愛される、という言葉を体現したような光景だ。空に吸い込まれるほど笑声が響いている。満開の笑顔で由為を歓迎している。彼岸でしめやかな愛情に包まれていた自分とは違い、由為は朗らかな好意の全てに向き合うと、両手を広げて受けとっている。うらやましい、といった感情もないわけではないのだろうが、目の前のやりとりは夢のようでよくわからなかった。感じるのは居場所のなさだ。
 いつもはもっと近かったのにいまはこんなに離れて。一人で見ているしかない。かつて此岸に来たときと似た虚無が胸に巣くいだす。
「お姉さん」
 急な呼びかけにびっくりする。七日に声をかけてきたのは明るい緑色の髪をした少年だ。年頃は由為と同じくらいだろう。青い瞳には穏やかさと理知が宿っている。服は彼岸のものより首回りに余裕があるものだった。
「はい。なんでしょうか」
 答えてから七日はこれが自分の声なのかと疑ってしまった。初めて会った此岸の人へ普通に言葉を返している。自然と出た言葉で少年と話をしているとにこやかな微笑を浮かべられた。
「僕は、直。すなおっていうんだ。由為の友達なんだけど」
「由為君の友達」
「うん。お姉さんも由為の友達?」
「違うかな。私は由為君の……仲間だよ」
 慎重に選んだ言葉が適切だったかは分からない。直は微笑を崩さないまま七日との距離を僅かだが詰めた。その距離は例えるなら爪の先ほどではあったが、心理的に近くなるのは慣れない経験でもある。七日は身構えないように意識をした。
 相手の挙動を見ながら、敵意があるのか興味があるのかを見極めようと試みるため、口元を引き結んで正面から見返す。
「直! 何やってんだよ……って」
 由為を囲む人垣からまた少年が飛び出たと思えば、あまり穏当とはいえない雰囲気を漂わせている七日と直にたじろいだようだ。灰色と青の瞳が同時に少年に向く。さらに少年は下がる。
 下がる少年が止まったのは、ようやく輪から出てこられた由為にぶつかってからだった。前後に立っているだけでも少年は由為よりも頭一つ高く、改めて由為の身長がさほど高くないのが明らかになってしまった。全員がその事実を知っているので指摘はしない。
「ごめん、待たせて。で。直やこれひとは七日さんに何をしてたんだ?」
「人聞き悪いこと言うなあ。何もしてないよ。挨拶だけで」
「ほんとう?」
「ほんと」
「本当だよ」
 七日が付け加えると由為は引き下がる。直はにんまりと口元を緩めながら、貴海の笑顔に似た表情を浮かべていた。由為もその表情には思うところがあるのか見上げながら言う。これひと、という少年は困った顔をしていた。
「もう、なんだよ。お前たち」
 こんな言葉遣いもするんだな。
 彼岸での由為は礼儀が良すぎる印象だったけれど、それは彼なりに気を張っていたのだと此岸に来てばかりだがよく分かるようになった。まだ十五歳の少年が年上にも年下にも無邪気ながらに気を遣っていたのだと思うと、自分の振る舞いは幼稚で恥ずかしい。
 七日は此岸を見渡す。緑の髪の少年である直は由為がむくれているのをくすくすと眺め、これひとは腕を組んだまま、大人たちは笑って見守っている。七日と視線が合うと屈託のない笑顔を返してくれた。
「あーもう! 俺たちは此岸の管理塔に行かないといけないから!」
「それが終わったあとなら時間はある? 久しぶりに会ってこのままお別れはつれないよ」
由為の視線が七日を捉える。大丈夫だという意味を込めて頷いた。貴海も今日は此岸に宿泊するように言っていたので、お使いが終わったらまたじゃれあえるだろう。
「では、俺たちは此岸の管理者さんたちにお会いしてきます。後ほど!」
 そうして此岸の中心にある細長く高い塔のようなものへ由為は歩き出した。七日も隣を歩く。此岸の地面はざらついた硬さがあって、早足になると足をとられてしまいそうだ。気をつけながら進んでいると、隣から声がした。
「……どうだった?」
 何を聞かれているのかはいまなら分かる。
 不安で、必死さを隠して尋ねる優しさに感謝しながら七日は答えた。
「悪くないんだね。此岸も」
「だろう?」
「うん。私は此岸が大嫌いだったけれど、お恥ずかしながらちょっと撤回。私は此岸をまだ知らないんだ」
 無知によって与えられた悪印象から好悪を判断するのは簡単だ。けれど知らないままでいると大切なものも見失ってしまう。知ってから、判断しないと歩ける道も見失ってしまう。
 実感しながら七日は言った。
「私はもっと此岸のことを知りたいと、初めて思ったよ」
 いま踏みしめている地面もどうやって舗装されたのだろう。西の岸部から此岸の中心まで歩くあいだにいくつもの知らない建築物や多くの物、何かをしている人たちを見かけた。
 ここには彼岸と違う世界がある。
 七日は立ち止まって息を吸った。
 目の前に広がる空の色は、由為君の目と同じ色だ。
「よく来てくれましたね」
 いきなり聞こえてきた声に一瞬だけ耳を疑った。懐かしくて温かな思い出と寂しい別れの記憶が鮮烈によみがえる。
 管理塔らしき建物の前で待つ人物は七日にとって唐突で、予想外の人だった。
 長い青い髪と黒い瞳の、裾の余った濃紺の服をまとっている妙齢の女性。彼岸にとっては尊敬すべき母であり此岸では為政者の一人である。
「みなか……みさん」
 七日に呼ばれた水上はにこりと微笑んだ。


 此岸の中心にある管理塔は、長い年月のあいだ風雨にさらされてきただろうが、青い壁にくすみや汚れは見られなかった。手入れをする人たちの努力によるものか、それとも汚れない仕組みなのかはわからない。
 重い扉をくぐって管理塔に入る。階段を昇り、三階の左側にある水上の部屋まで由為と七日は案内された。薄い灰色の絨毯が敷かれている広い部屋だが、空間を埋めるものは少ない。此岸ではペンを携える仕事をするものは少数だから紙などがあふれかえることもないのだろう。
 水上は由為と七日を対面するソファの右側に座らせてから、自分は左側のソファに腰を下ろした。
「さて、今回は此岸にようこそ。七日さんはご存知でしょうが、由為さんとお会いするのは初めてね。私は水上。此岸の統括管理者の一人です」
 統括管理者。彼岸よりも人口の多い此岸だけに定められた、四人による此岸の最終意思決定機関のことだ。此岸を四つに割ったあとの各地域に統括管理者は一人ずつ任命され、地域を治める。数少ない彼岸との交渉窓口でもあるが、彼岸の個人と関わるような人はあまりいない。
 由為は改めて水上に頭を下げて自己紹介をする。
「今回は彼岸の管理者、貴海からの使いで参りました。由為と申します」
「下の統括管理者から聞いています。お若いのに優秀だと」
 微笑以外の表情を浮かべない水上を由為は注意深く観察する。ファレンが言っていた、かつては彼岸で七日の育てを見守っていた人。いまでは此岸の守護者となっている人。
「こちらが使いのものになります。お受け取り下さい」
 由為がソファに戻ると七日は立ち上がり、ソファの左側に回って、手紙を差し出した。水上に受け取ってもらえるとまた元の場所に戻る。
 任された仕事自体は終わった。
 これからどうするかを考えていると、水上が七日に向き直る。
「私は由為さんに少しばかりお話したいことがあります。七日さん、一人で此岸を見にいけますか?」
 顔を動かさずに視線を移す。以前に比べて多少は良い印象を持てるようになったようだが、前回の苦い経験があるというのに七日は一人で此岸を歩けるだろうか。心配だ。
「行けます」
 あっさり答えられた。由為は思わず傾いてしまう。
「どうしたの?」
「いやなんでも」
 衛ときさらと仲良くなったときもそうだが、七日は自分の感情に素直過ぎる。一度のわだかまりで険悪にもなるが一度の和解で全てを丸く収められる。嘘偽りがないためごまかしで人と付き合うこともいまはできないが、後の経験によっては変わるだろう。
 七日は立ち上がる。スカートの裾を正してから一礼をした。
「私は此岸を見させていただきます。由為君、どこかのお店で。水上さんもまた今度お願いします」
「ええ。いつでも来てね」
 口元を緩めて七日は出て行った。結ばれた長い青の髪が揺れて動き、消えていく。
 扉が閉まり、二人きりになる。水上が尋ねてきた。
「彼岸はどうでしたか」
「……綺麗で、美しくて、儚くて。それなのに恐ろしいところでした」
「ええ。簡単に壊れそうなのに油断しているとこちらが浸食されてしまう。だから私たちはあなたたちを選んだの。どの字とも親和性の高い由為さんに、筆記の能力が高いきさらさん。現字以外に対して耐久力のある衛さん。今回の派遣は適任だったかしら」
「前ならはいって言えましたけど、いまは自信ないです」
「あら。由為さんは貴海さんと相性が良いと思ったのだけれど」
 意外そうな水上に、自分が貴海を怒ったばかりとは言いづらかった。
 だが、いまを逃すと貴海との生まれ始めている溝を相談できる相手もいない。由為は悩むが、貴海を知っているだろう人からの意見を聞くために、話すことにした。
 出会いから、尊敬まで。尊敬から、苛立ちまで。苛立ちから、悲しみまで。悲しみから、困惑まで。話は続いていく。
 たまに途切れる展開になっても水上は急かさないでくれた。適切に相槌をうってくれる。黒い瞳にはいたわりが宿っていて、由為のことも貴海のことも非難しなかった。彼岸にもいた経験があるから分かってくれるのだろう。一方の話を聞いて一方を悪だと決めつけない。
 平等性が由為には楽だった。
 話が終わる。
「喉は渇いていない?」
「ちょっとだけ」
 水上は扉の外に向かって茶を持ってくるように頼む。ソファに戻ると、由為を真っ直ぐに見ていた。
「話を聞いて思ったのだけれど。由為さんは貴海さんが大好きなのね」
「まあ、うん。たぶん……はい」
 振り向かない背中に、向けられる微笑みに、理解させてくれない孤高に、由為は苛立ちながらも惹かれている。
「貴海さんは誰に好かれていようが気にしない方だから。つまり誰に嫌われても構わないところがやっかいよね」
「寂しくないんでしょうか」
 途中で茶が運ばれてきた。机にカップが二つ置かれて、水上からねぎらわれたあとに人は去っていく。
 勧められて由為はカップに手を伸ばすが、淹れられた茶はほどよく熱い。口に含むと気が緩むような熱に溶かされた。
「本人は寂しくないのよ。貴海さんは     」
 後半が聞き取れなかった。水上はもう一度言う。
「そうね、貴海さんは」
 今度は続く言葉が消去された。それは分かる。あってはならない言葉だったから世界が先に消してしまった。
 不可思議な現象を当たり前だと納得した感覚に近いものが走った。もう一つ、此岸の状況を把握している人に聞かなくてはならないことが由為にはあることに気付いた。
「水上さん。世界が滅んだというのは、本当ですか」
 突飛な質問だ。
 由為もいまだ信じきれていない現象をはっきりと尋ねれば、水上は落ち着いたまま答えを返す。
「ええ。世界は滅びを経験したわ。私だって覚えています。十四年前に、過去を吹き飛ばす風が吹いたことを」
「滅んだ。でも、俺は貴海先輩に教えられるまでそんなことに気づけなかった。世界が滅んだなら、ここに俺たちがいるのはおかしくないですか?」
「おかしくないの。古字以前の字は滅びてしまったけれど、おおよそ四十年前から十五年前にかけての字を扱える人は、現字になることで生き延びられた」
 絨毯に目をやりそうな、うつむきそうな首を必死になって固定する。知らなかった現実と真正面に向き合うあいだも水上の話は続いていった。
「この世界における滅びとは循環するものよ。いつ来るかはわからない。だけど次の滅びの波が来るときこそ、私たちが古字となって、いなくなる時ね」
「その時はまだ先ですか」
「いいえ。もう新字の交代が始まっている。遠くない未来にいまの現字である私たちも滅ぶわ」
「水上さんは、その滅びを受け容れられるんですか」
 声が震える。
 滅びたくないからだろうか。それとも、もっと別の何かがあるからだろうか。
 いまにも涙がこぼれそうになるのを懸命に抑える。いまはまだ泣く時ではない。世界に向かって抗う時だ。
 だって、貴海さんの前で啖呵を切ったじゃないか。
 答える声は由為とは反対に落ち着いていた。
「私も私の滅びは受け容れるしかありません。でも、あなたは違うのでしょう? 世界が滅びるのを見過ごせないのなら案内します。滅びの始まりの場所。新字の源に」
「しんじの、みなもと」
水上は話す。
世界は字によって成立している。此岸の北東の地から新字は生まれて流れていき、現字と入れ替わり、現字は古字となり滅ぶのだと。
「そこにたどり着きたいのなら、変革を覚えなさい。あなたが変革を扱えるようになったそのときを私は待っています」
「その場所にたどりついて、俺に何ができるんですか」
「自分で考えて。由為さんができることを見つけてください。……それが、彼岸の管理者の本当の役割だから」
 貴海のように、水上も伏せていることがあると察せられて由為はいやになる。どうして重要なところは教えてくれないのに期待だけよこしてくるのだろうか。
 それでも、世界を救うと決めた。だから文句は言わない。
 最初に七日と出会った夜に言われた言葉をふと思い出す。「どうして自分がここにいたことがあるのかを考えたことはあるか」。そのときの由為は答えられなかったけれど、いまは言える。
 傲慢だろうが、世界を救うために自分は彼岸にいることを選んだのだろう。


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