花園の墓守 貴海編第二章二話『望まぬ未来』

 滅びた此岸から由為を連れて帰ってきた弦ならば、再び滅びた此岸に行ってヴィオレッタの剣を拾いに行くのも簡単だろう。疑問なのは、なぜそんなことをしたのかだ。剣が封じていた花影たちは影生を残して全て還した。役目を終えた剣に意味はない。
 あるとしたら、鞘だ。由為が作った字を封じる力を持った鞘。
 貴海は夜の此岸を歩きながら弦の気配を探る。隣には変わらずファレンがいた。何事かを企んでいる弦に用事があるが、ファレンを一人だけ部屋に残していくとろくなことがない予感も十二分にしていた。その荒事は由為にも危険を与えるだろう。ついていく、と主張した由為に少年たちから他の情報を引き出して欲しいと頼めたのは幸いだった。
 強くはない夜風を浴びながら貴海は言う。
「ファレン。君は、弦のことを覚えているか。三年前からではなくもっと昔の弦を」
「ああ。出会った時から俺たちのことを好いてくれたな。いつだって気を惹きたいのに、不器用な我慢ばかりしていた。俺は弦を気に入ってるよ」
 ノクシスと白姫が彼岸を強制的に去ることになって、此岸から使わされたのが弦だ。花影と人が交わった結果として生を得た弦は、此岸では持て余されていた。過去に例はあったようだが、当時の此岸に弦と同じ命はなかった。
 孤独が共鳴したのだろう。彼岸に来て、ファレンを認識した弦は望んで隷属するために膝をついた。ファレンに寄り添っていた貴海のことも純粋に崇めた。誇張ではなく、事実として弦は貴海とファレンに心酔している。結果、彼岸から離れさせることになったが、由為を利用してまた戻ってきた執念は侮れない。
「あの者ならば、ここであっても君を認識することはできるだろうか」
「会ってみないことにはなんとも。見ているだけでカードの裏を読み取ることができないのと同じだ」
 妙なたとえに感心しつつ、貴海は足を止める。
 空を見上げた。
 黒い布を敷き詰めただけの天に光はなく、隣にいるファレンの目の色は分かるが睫の先は溶けてしまっている。信頼のある疑問をファレンが投じてくる。人さし指を口元に添えてから、貴海は虚空に言葉を置いた。
「そこにいるんだろう、弦」
 返事はないが此岸の北東に向かって歩き出す。途中で一歩先すら不明瞭になった。空気が変わる。空はどこにも続くことなく切り取られ、道には果てがある。進む先には新字の源もあった。
 途中に鞘を持って立っている弦は普段と変わらない明るさで手を振っている。
 六歩ほどの間を開けて、貴海は弦と向き合った。
「僕の変革に乗ってくださるなんて光栄の極みですよ。その気にすらならなくとも、貴海さんなら一気に変革を返せたでしょうに」
「君が、俺たちに用事があるんだろう。時間が惜しいため早く済ませてもらいたい」
「つれないですね。そういうところが大好きですけれど」
 言われても嬉しくない。
 弦は新字の源を背にしながら、左手で鞘を持ち上げた。何も収まっていない空っぽな由為の鞘だ。
「ヴィオレッタの剣は」
「こちらに」
 今度は右手を持ち上げる。弦が手にしていたのは確かにヴィオレッタの剣ではあった。剣であった、と例えるのが正しいほど無残な姿を晒している。透明な薄紫には至る所にひびが走って亀裂となっていて、僅かな衝撃で破片と化すだろう。まだ剣の姿を保てているのは破片同士が噛みあっているためだ。
 貴海はヴィオレッタの剣が破損した原因を探る。望まずに与えられた、見たものを読み解く目で現在ではなく過去に遡っていった。
 最初に剣を突き立てたヴィオレッタの時点では何事もなく花影を封じる役目を果たしている。次に、由為が剣を抜いたときに異変は起きた。ヴィオレッタの剣は与えられた役目から遠ざけられる。
 ヴィオレッタの剣が封じられるのは字になり損ねたものたちだ。新字はあてはまらない。だから、新字を封じる由為の鞘に収められた剣は。
 壊れた。
「結論として由為はヴィオレッタの剣を正しく刺し直せなかった。滅びの摂理に抗う手順を踏めなかった、わけか」
「そういうことだったんですね」
 純粋な驚きに、弦の目的は剣でもなく、鞘でもなく。自分とファレンに向けられていると確信した。長話に付き合わないために、釘を刺す。
「わざわざ呼び出してくれた用事とはなんだ」
「彼岸に帰ってくれませんか」
 そのときばかりは普段浮かべている笑みなどなかった。真剣な様子で弦は続ける。
「此岸の滅びは確定しています。だって、もう新しい字は生まれません。新字の源の流れが止まっていたのも僕はこの目で確認しました。いまになって、貴海さんが此岸を滅ぼす必要なんてない。……そもそも、十七年前に此岸の息も止まるはずだったのに。あなたの慈悲深さにつけこんで、強引な延命をさせたのが水上さんをはじめとする人たちでしょう」
「違う」
 口にされた内容は合っているところはある。同時に大きな間違いもあった。
 それが、貴海の胸に悲痛を宿らせる。自分たちの崇拝者であった弦もファレンのことを感知できない。
「俺が世界を滅ぼさなかったのは、俺の勝手だ。利害が一致していたからそう見えるだけで、俺は誰にも利用されていない」
 ファレンとまだ彼岸に留まっていたかった。だから、此岸の平穏を保つことを条件に彼岸の日常を続けることも保証させた。彼岸の花がなければ此岸の人は生きられないのでさほど無茶苦茶な取引にならなかったのは幸運だ。
 いま、弦の変革で呼び込まれた滅びた此岸を貴海は見渡す。人の気配も花の薫りもない。「弦は」
「あ、はい!」
 名前を呼ばれただけでいまの状況を忘れたようだ。身を震わせて弦は感激している。
 一緒にいた時期もあったというのに、片手で数えられるほどしか貴海は弦の名前を呼んだことがなかった。さらに呼ぶときも必要な場合しかなかったので、弦はいま呼ばれたことに驚き、喜んでいる。
 衛ときさら、由為を知る前だったら弦の喜びを理解できなかった。彼らを知ったから、いまは分かる。
「弦は、此岸の滅びを止めない側だな」
「ええ。本来のこちらの此岸に到達すべきです。これでも僕の半分は花影でもありますから」
「わかった。それを承知で、俺が頼みたいことがあるんだが。聞いてもらえるか」
「はい!」
 罪悪感が湧き上がりそうなほど好意に満ちた即答だった。浮かれた空気に一筋の緊張感を走らせてファレンが囁く。
「お前、ろくなことを頼まないな」
「ああ。前にも言ったはずだ。俺は君しか救えない」
 小さく言葉を返したあとに貴海は弦へ笑みを浮かべた。散々七日にあくどく見えると呆れられた微笑だが、弦からしてみれば笑顔を見せてもらえただけで、幸福が満ちあふれていくのだろう。
「俺が動ければ事は簡単に済むんだが、世界を滅ぼさないという約束を俺は由為たちとしている。その約は破れない。かといって、このまま首がゆっくりと絞まるように滅んでいくのを見るのも胸を痛めていたところだ」
「でしたら」
「ヴィオレッタの剣と鞘を由為に渡してくれ。そうして俺は由為の仇となり、世界が滅びても仕方なかった状況を作ろう」
 了解の言葉を聞く前に、またファレンが割り入る。
「待て。俺が害されない限り貴海は滅びに手をかけない。そういった約束だろう。お前が由為の敵になっても、由為は俺を害さない。生来の優しさに加えて、俺を認識できないのだから。意味はない」
 ファレンが言ったことは正しい。
「確かに由為は害さないだろうな。此岸の誰もが、君を害そうなど思いつくことすらできない。ファレンを認識できるのは俺だけだから。つまり、俺がいなくなったら」
「貴海」
 このような状況であってもファレンが瞳に宿す感情は、怒りではなく、憤りでもなく、悲しみでもなく。貴海を真に案じる金色で満ち満ちている。寄せられた眉に細い緑の瞳孔。
 愛おしいという感情の全てを君が教えてくれた。
「君を秤に乗せることはどうしても避けたかった。犠牲になるのが俺だけなら、もう二十年前にしていた。此岸も彼岸と共に滅びていた。それなのに俺をこの時まで生かしてくれたのは、ファレン。君という存在だ」
「……知っているとも」
「ありがとう。そして理解してもらいたい。いまの此岸の状況は、いかにして滅ぶかが問われている。何もしないで滅びるか。ファレンを失って俺が自棄になって滅ぼすか。誰もが滅びを受け入れて安らかに滅ぶか。どのカードを選ぶのかは此岸と彼岸にいる全員だ」
 できることなら、可能な限り最後のカードを多くの人たちに出してもらいたい。そのために貴海は、いまだ滅びに抗う相手の反対側に立つことにする。
 三年以上も見守ってきた。由為の誓い、七日の成長、衛の決意にきさらの迷い。彼ら彼女らは常に選択してきた。手が届く限りの未来を選んでいく姿は、惑いを残しつつも、誇り高かった。
 同じく、俺が選択する番が来た。それがいまなだけだ。
 長い独り言を弦は遮らないでいてくれた。貴海はファレンの手をつかむ。ファレンも貴海の手に指を絡めて、歩調を合わせて共に進む。
「由為は俺と同じ家にいる。もう少し後に戻るから、剣と鞘を」
「はい。弦が確かにお届けします」
 会話は終わった。弦は去っていく。
「弦ですら、君に気付かなかったな」
「構わないさ。それが俺だもの。貴海以外の物語になれないのが、俺だもの」
 満足しつつも頬に銀の筋を落とすファレンの肩を貴海は抱く。
「脅してすまなかった。頬でもどこでも張り倒してくれていいから」
 目を閉じるが、激しい衝撃は一度も訪れなかった。唇に優しい炎が点っただけだった。口づけだと気づき、その甘さを受け入れる。
「ファレン」
 髪を梳きながら、流れる滴を拭いながら、貴海はできるかぎりの愛撫を繰り返す。されるがままのファレンは声を震わせる。
「どうして、お前は仇になるんだ。最期まで言葉を尽くして良き先達でいられる道もあっただろう。たとえ滅びようとも失わないで済む信頼もあっただろう。由為たちも苦しいが、こんなの、貴海だって苦しい」
「苦しくないと言ったら嘘になる。けれど、いいんだ」
 君が傍にいてくれるもの。
 ファレンはもう何も言わない。
 貴海は一度、またたきをして滅びていない此岸へ戻った。

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