砂糖だけでは食べられない

 あらかじめない世界に二千二十二年の日本の常識を持ち込んで、わざわざ「これはない世界」と語って、一つの世界観を作り上げるのは親切だが滑稽だ。
 ある世界でなくてはない世界を観測できないように読者は考えるが、大いなる勘違いではないか。ない世界にとってはないということは事実でしかない。説明するまでもない。ギリシャ神話の時代にパーソナルコンピュータがないと書くことを親切と受け取るか、それとも余計な情報と眉をひそめるか。自分によく問いかけてみよう。
 読者は、わがままなものだ。
 話は移り変わる。
 二千二十七年の小熊央利が生きる時代には、半年に一度「著作発表権」と「試読権」が配給される。
 著作発表権というのは自分が記した物語を好きな媒体で公表できる権利だ。表現の自由はかろうじて保証されているが、一定の人物は物語を発表しすぎて嫌悪されるようになってしまった。一つは読者に対する要求過剰。それとは別の観点で、作品を発表するたびに使われる資源の枯渇問題がつきまとう。
 読者もわがままだが、著者もたいていわがままだ。
 わがまま同士がぶつかるのだから、妥協策として著者は発表の機会を節約すること、また節約されただけ読者は半年に一度は提示された著作に感想文を添えることになった。
 夏、高等学校の冷房の効いた教室で、央利は試読権を使って読み終えた著作を机の上に置き、アンニュイな溜息を吐いた。
「カワイソウだよね」
 その話を聞いてる鎖火君一は宿題に取り組んでいた。英単語帳から顔を上げると親切に問い返す。
「報われない、いい人って存在が」
 押し出されたのは『ひとりぼっちの道半ば』という著作で、著者は「半端」というペンネームを使っていた。
 明るい展開は期待できない題名と筆名だというのに、どうして央利がそのような著作をわざわざ読もうとしたのか、君一にはその気持ちが想像できない。
「貴重な一回を棒に振ったね」
「わりと面白かったけどね。あと、僕が呑気な作品ばっかり読むように言わないでよ。世の中の四分の三の作品は絶望から生まれているんだから」
「全く信用性のない統計だ」
 根拠のないことを堂々と言い放てる神経の太さが、発言よりも驚きだ。著作に取り組む相手に失礼なのは、央利と君一のどちらだろう。
 世の中に希望を与える作品であっても、発端が絶望だというのは、君一にとって納得できない意見ではないが。決めつけるのはよくない。
 二年前に取り替えられて、傷も鉛筆の痕も残っていない清潔な机を挟みながら、央利と君一は他愛のない話を続ける。
「で、どうして報われないいい人がかわいそうなの」
「この作品の、ある人物はせっかくいい人であろうと振る舞ったのに。結局それは化けの皮だと主人公に罵られて茹でられた」
「自業自得じゃない」
 善人の化けの皮がどういったものかは見たこともないが、裏切られた主人公の恨みが相当だったのだろう。
「悪人でも善人でも責められるなら人は生きていけないよ。僕はそういう差別が嫌い。人は、常に自分にとっての快適ばかり求めるんだから」
 君一は黙って、シャープペンシルをノートに滑らせた。
 いつ発声する機会が訪れるかわからない、英語のアクセントの位置を紙で書くために覚える。この行為に熱心になれる者はいても、意味を見いだせる人は何人残るのだろう。二十五人の教室の中で。
 いま、君一が央利の読む行為をあっさりと否定したように、肯定するよりも反対を選ぶことは簡単で気持ちがよい。その数が多かったら一層だ。
「耳に痛い?」
 にまりと笑い、栄養に満ちた猫が弱った鼠を見下ろしてくる。
 それは君一の錯覚だ。
 央利は、猫よりも一矢報いようとしている鼠の立場に立っている。無駄な矢を常に番えて世の中に放ち、多くの人に怒られている。
 それでも央利は世の中に不愉快な疑問を投げかけることを止めはしなかった。
「まあ、いまの人たちは不快を憎みすぎなんだよね。お菓子の城に暮らしすぎてわさびや柚子胡椒が舌に合わなくなっている。砂糖だけじゃ天ぷらは食べられないのに」
「今日は随分と辛口だな」
 聞いているのが自分だけでよかった。
「たまにはね。くだらない地獄に触れた後は、崩れている天国がとてもつまらなく見えるよ」
 央利は席を立ち、手を差し出す。
 その手が求めるものを知っている。君一は鞄の中に入れたクリアファイルから青と赤の紙を二枚、渡した。
「感想文は頼んだ。だけど、変な本は読まないでね。提出するのは僕なんだから」
「うん。ありがと、じゃあね」
 君一は一人になる。宿題を終わらせていく。
 翌日になって教えられたが、央利が君一の代わりに購入した著作は『夢泡』という。中身は知らない。ただ、渡された感想文には目を通す。
 その感想文も本当に内容に触れているのか知っているのは央利だけだ。
 君一は『夢泡』を読んでいない。
 試読権の確認のために感想文を受け取る相手も、わざわざ『夢泡』を読むことはしないだろう。
 君一は読むことすら放棄した、読者だ。


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