刹那の幸福という居場所

 魔物討伐の依頼を達成した後、碧髪とエメラルドブルーの瞳の青年レクィエは暗い色合いの青年クレズニに指摘した。
「服が破れてるぞ」
 言われたとおり上着の下部が裂けている。その部分を持ち上げてるが見てみると修繕不可能なほどの破れではなかった。
 沈黙の楽器亭に帰還次第、ちくちくと針仕事に取り組む余裕があるか予定を計算し直していると、今度は顔をのぞき込まれる。
「縫ってやるよ」
「ありがとうございます」
 クレズニは好意を素直に受け取ると礼を言った。
 リーダーであるカクヤに呼ばれて、六人で宿に帰還する。

 依頼達成翌日の、クレズニの部屋だ。
 窓は部屋を中心にして上を北にして見ると、西と南東に設置されており西の窓の隣にはベッドが置かれている。あとは本や道具の収められた棚と、広い机が続いていた。クローゼットは南にある。他にも棚は二つ用意されていた。どこも余裕をもって整理されている。
 王侯貴族が使用するほど上等とは言えるわけがないベッドの上に、レクィエは座っていた。その向かいにある帳面とペンが数本置かれているだけの机の椅子にクレズニが腰を落ち着けている。
 クレズニはレクィエが器用に指を動かすのを眺めていた。
 いまは揺らがない水面と等しく静かな時間だ。外の天気は良く、光がちらちら舞っている。窓から差し込む陽気に照らされているレクィエの背中も暖かだろう。
 どちらも言葉を発さない時間が続く。クレズニはレクィエと過ごすときの無理に話さなくても良い空気に感謝していた。同時に、平穏であることが好ましかった。もしもいま一緒にいるのがサレトナという構われたがりの妹だったら、可愛くのないおねだりをされてまた喧嘩になっていることだろう。それでもサレトナはクレズニに構われたがってくる。クレズニも邪険にすることができない。
 全く可愛げの欠片もないというに愛おしい妹なのだから不思議だ。しかしこれらを言葉にすると「シスコンが」と仲間たちを初めとした多くの人たちに呆れられるのにはいまだに納得がいかない。クレズニはサレトナが大切なだけだというのに。
 レクィエに意識を戻す。
「お願いできてこちらは助かりましたが、貴重な休日をいただいてよかったのですか」
「おやつ前」
 いまは昼食を終わらせたあたりなので、すぐに終わらせられると言いたいのだろう。
 淡々と、それでいて慣れた調子で針を動かして糸を縫い付けていく。クレズニの視線を感じてか、レクィエが言う。
「俺がこういうことをできるのは意外?」
「いえ。戦闘でのワイヤーの扱いを見ていたら、あなたが器用であることは十二分に納得できます。それに、私は世話を焼くことが多いので」
 短い笑いの間を置いた。
「されるのは新鮮で、楽しいものです」
 世話をするのは嫌いではなく好きな方で、反対にされる側に回されたら疲れる印象が強かったが、レクィエに面倒を見られるのは悪くない。言葉にしたとおり、楽しいと思っていた。レクィエには素直に背中を預けられる。
「よかった」
 レクィエがその一言を口にしただけで、またしばらく、揺らがない水面の時間が続いていった。針を扱う手は繊細かつ一定の調子で眺めているだけでも飽きないのだから、立派な技術だと評せる。
 レクィエは過去に裁縫を必要とする機会が多かったのだろう。
 クレズニは目の前にいる青年が貧困街の孤児であることしか知らない。それ以外は踏み入らなかった。
 踏み入れないわけではなかったというのに興味本位で近づいて火傷しないようにしていた。レクィエも無遠慮に触れてもらいたいと思っているはずがないだろうから。
 裕福に育っているクレズニの存在自体がレクィエにとって気にくわないのでは、などといった不安も結成初期にはあった。事実、いまでも豪商の子であるソレシカとレクィエは反りが良くない。ソレシカはあまり気にしていないのと、レクィエも爆弾の導火線を放置しているからうまくやれているといった距離だ。
 けれど、レクィエはクレズニを気に入っている。
 その理由はまだ明らかにされていないが、相性が良かったのだろう。レクィエ本人の気質はわりと真面目だ。
 クレズニが考えているあいだも動く手は綺麗で。
「刺繍はいりません」
「ちえー」
 猫の形を描き始めた糸を止めて、レクィエは玉留めをしてから針を抜く。針を丸くて赤い針山に戻したあと、クレズニに上着を投げた。
 ぱさり、と空中で受けとめる。まだ腕を通さず、仕上がりを確認したあとに声をかけた。
「見事な修繕です。お礼は何がよいですか」
「あんた」
「そうですか。ではどうぞ」
 一瞬の逡巡もなく言われたものだからクレズニは首を少しだけ持ち上げて目を閉じた。近寄られる気配だけを感じながら、想像していたより熱のある指先が触れてくる。
 動きは生きていた肉を食材へと捌いていく屠人を連想させた。
 額に指先を、頬に手のひらを、そのまま瞼をやわく押された。
 唇にも、指。
 ふにとした感触に反応して薄く目を開けてしまえば、すぐ前にはレクィエが緩く微笑んでいた。
 その顔が、泣き出しそうに見えたのは、孤独を背負っているように感じられたのはクレズニの気のせいだろう。
「あんたも綺麗だよな。ソレシカやタトエとかも整っているけれど、あんたが一番繊細で綺麗なつくりをしている」
「秀麗ですから」
 吐息がかかったのか、唇に触れていた指が離れていく。だがレクィエの視線は外れない。一度射貫くことを決めたからには容易に剥がされなどしない、執着があった。
 少しだけ持ち上げていた顎に指を重ねられて、顔がまた近づいてくるがキスは防いだ。
 そこまでではない。
 軽々しく触れられても、軽々しく暴かれることを許す関係では、まだ、ない。
 至近距離のまま、レクィエの背後には閉ざされた扉が見える。鍵はかけていただろうか。サレトナはノックはしてくれるが、かかっていない間に返事のしようが無い状況に追い込まれたら不審がられるだろう。
 クレズニが状況を把握しようと思考を巡らす冷静さに気付いたのか、苦笑された。
「なかなか落ちてはくれないな」
「これでも身持ちは固いつもりです」
 そうではないと妹を殺すと命じられながら、常に殺さないように規律することなどできないだろう。
「じゃあ心はどうなんだ」
 心臓に触れられるように胸の上に着衣越しに手を当てられる。
 クレズニはレクィエが好意を、とびきりの特別な感情を自分に抱いているというのは、薄く察していた。
 他の仲間を見るのとは違う、熟された熱であぶられているエメラルドブルー。どうしてその中に閉じ込められる存在としてクレズニが選ばれたのかは模糊としている。
 だから、明確な事実を告げられた。
「私の心はサレトナに預けています」
「盗みたいな」
「失礼。盗賊というよりも怪盗の台詞ですね」
「あんたの心を盗めるのならばどんな役割だって演じてみせるさ」
 それは、冗談だけではなさそうだ。
 レクィエは手を離すと、ステップを踏むようにクレズニを巻き込んでベッドの上に倒れ込む。
 柔らかなシーツの上にはりつけられたクレズニの視線の先には、いた。
 笑ってなどいないレクィエがいた。
 嫌悪はない。抵抗する気持ちになれないほど、強引に押し倒されても嫌だという感情は一片たりとも浮かばなかった。
 それなのに手を伸ばし返すこともできない。曖昧な距離感。
「なあ、クレズニ。俺は前に言ったように童貞も処女もとっくに済んでいるけれど、初めて自分から触れたいって思ったのが、あんたなんだよ。どうしてだろうな。手当をされるたびにとか、地図をのぞき込まれるときとか、そういう場合じゃないのにあんたを強引に振り向かせて口付けたくてたまらなくなる」
「どうして?」
 疑問が、肝心だった。
 どうしてレクィエはクレズニを欲しがっているのか。その点が明確にならなければクレズニは何一つレクィエに自分の感情を打ち返せなくなる。
「一つは気持ちが良さそうだから。あんたの側にいるだけで、幸せになれる。触れたらもっとぞくぞくとするんだろうな、って何度も考えたよ」
「どうしてそうなるのですか?」
「好きだから」
「どうして」
 核心に届かない。メスで重要なところを腑分けできない。
 だから、クレズニは繰り返した。レクィエがまだ明らかにしない柔らかで熱い核を見たかったからだ。
「どうして?」
「堂々巡りだな。ああもう、どちらが先かは分からないけどさ。俺の人生で一番輝いている瞬間がいまで、その中心にいるのがクレズニ。あんたなんだよ」
 それは、いけないことだ。
 起き上がるとクレズニは断言する。
「駄目です」
「え?」
「あなたはもっと幸せに対して貪欲にならなくてはいけません」
 十センチメートルくらいしか間がないほど近くにいながら、クレズニにはレクィエがまだ遠かった。
 現在が幸せなのは良い。だが、いまだけ幸せでいてはいけないのだ。人は続く。長いか短いかは不明だが一生を歩く。その旅においてできるだけ多くの幸福をつかむこともまた、生きる意味だ。
 だがそれを伝えても意味が無いように思えた。クレズニはレクィエのことを知らなさすぎる。知らないというのに知ったような振りをして偉そうなことばかり言うのはごめんだ。
 クレズニはレクィエを隣に座らせると距離をさらに縮めた。指先が触れあうくらいに近づく。
「レクィエ。あなたのことが、私は知りたい」
「お、おお? どうしたいきなり」
 当然に迫られて冗談でかわそうとするがクレズニは逃がさなかった。
「あなたが、私と出会うまでのあなたを知りたいのです」
 容易に触れられることではない。ふざけるな、と怒られるのかもしれない。
 それでもクレズニは自分からレクィエとの間にある空白を初めて埋めたくなった。溝を埋めて、夜空の下で孤独に笑うレクィエの隣に立ってみたくなった。
 エメラルドブルーの瞳。一度の瞬きのあとに、レクィエは過去を話すことを了承してくれた。
 レクィエの過去は語り口調こそ淡々としていたが、聞いているだけでも重さが堆積していく話だった。クレズニはそれを全て、自分が望んだことだからと受け入れた。
 レクィエは孤児だった。物心ついた時から父も母も見覚えがなく、いたのは一人の教育者だった。
「おかしな例えだが、俺にはそう呼ぶしかないんだよ」
 その教育者は幼いレクィエに基本的な、暦や数字、年齢といった概念と共に盗賊の技術と俳優の技術を叩き込んだ。言葉通りに。
 そうして十三歳で、貞節を失い、花も散らす。教育者との折り合いも悪くなっていったので一人でその場暮らしをするようになった。
 転換点は、十四歳だ。
 師匠に出会った。尊敬できる人だった。何を教えられたかは語られなかったが、それだけでレクィエが師匠を心の核にしていることが伝わってきた。
 そうして、二十一歳の夏にクレズニと出会った。春ひさぎの宿に引っかかる、間抜けな客を利用しようかと思ったがすっかり骨抜きだ。
 以上の話を聞いて、クレズニが最初に口にした感想は単純なものだった。
「よく生きてこられましたね」
「俺は運が良い方だったし、なんとかしていったら何とかなるもんよ」
 軽快に話す隣に座っている青年に感心することしかできない。
 レクィエが人生を受け入れている様がひどく眩しい。それは、クレズニにはできなかったことだからだ。レクィエよりも恵まれた環境であったというのに、クレズニは己の環境を疎んできた。
「私も毒を盛られたり、サレトナを殺害しろなどと強要されて生きてきましたが」
「そっちのが辛くない?」
「辛いですよ」
 特に辛いのは、いまだに呪いの拘束から解放されないことだ。
 クレズニはレクィエと並んでベッドに座ったまま、前のめりになって額に両方の拳をあてる。
「いまだに、私は私の人生が悪夢であってくれないかと願います」
 だけどいまはそんな自分のことよりも。
「レクィエのいまが心配です」
「幸せなのに?」
「未来の幸福に手を伸ばそうとしないのは放っておけません」
「だけど、俺にはずっといましかなかった。未来は遠いしまだ届かないんだよ。だから、いまの幸せがずっと続けばいい。それだけを願ってしまうんだ」
「永遠に続く幸せはありません。哀しいことに」
「知ってる」
 悲しみが薄まって怒りも削れていくように。楽しかったことも終わり、喜びも去っていく。それは幸福も不幸も例外ではない。
「私たちは永遠になどなれやしないのです」
「だったらあんたが俺の永遠になってくれ」
「は?」
 レクィエは言ったことの意味を説明しなかった。ベッドから立ち上がって去っていく。
 呆然とするのはクレズニだった。
 言われたことはプロポーズなのか、それともただの戯れか。後者の可能性が限りなく薄いことに目をそらしながら、縫われた上着を見る。
 母が子にするよりも丁寧な仕上がりだ。
「礼は、しないといけませんね」
 それがどんな形になろうとも。
 今日はクレズニがレクィエを仲間や友人ではない、さらなる一個人として意識するようになる一日になった。

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