まのらの丘のお姫様

 二千二十年、四月下旬。
 十七歳の少年、功利はつまらなかった。
 未だ知れずの感染症によって、外に出ることすら叶わない。窓の向こうの空は誘うように晴れているというのに、桜も見られずに散っていった。
 ベッドに寝そべっていたのだが、腹の上がなんだか重い。
 目をむけると膝丈くらいの黄色い謎生物がいた。
 丸い。とにかく丸い。楕円が少し平べったくなったくらいに厚みが加わり、三角形をした小さな足と手がくっついている。目は一本線を引いたように縦で、口はいわゆるオメガの形をしている。
 功利が何も言えずにいると、まだ堂々と腹の上に居座っている謎生物が手を上げた。
「やあ! ぼくはまのらだよ。お姫様に会いにいこう!」
「なんでだよ!」
「いま君が囲ってしまっているブリを取り払うためさ」
「無聊か」
「正しいのは多分そっちだね」
 どこから発しているのか分からない、キャンディーボイスを聞きながら、功利は寝ようとした。
 これは夢だ。幻覚だ。
 左側に横向きになったのと合わせて、まのらという謎生物は腹から落ちた。
 ぼん、ぼよんと音がする。
 痛かったかな。
 ちょっとした罪悪感にかられて目を開くと、真正面にまのらがいた
「うわああ!」
「どうせ夢の中にすればいいんだから、ちょっとぼくに付き合ってよ」
 そうして功利はまのらに引っ張られて、部屋のクローゼットに入れられた。

 なのに、クローゼットの扉を開けて出てきたら、こじんまりとした村があり、色違いのまのらがたくさんいた。
 コック帽を被っていたり、エプロンをしていたり、リボンをつけていたり、緑だったり青だったりピンクだったり。
 共通しているのは、みんな歩くのが遅いということだ。
 功利を連れてきたまのらが言う。
「ちくうがいま大変なことになって、僕たちもひっばりまのらさ。にんげんたちもたくさんくるしんでいるから」
「地球だろ。……こんなファンシー生き物のお前たちに、なにができるんだ」
「話を聞くこと。八つ当たりされること。抱きしめられること。踏みつけられること。泣いてもいいんだよって、言うこと」
 流暢ではあるが、まだいとけなく喋るまのらだったが、いま口にした言葉はひどく大人びていた。功利はなんだか胸が痛くなる。
「にんげんが、にんげんどうしで傷つけ合ったらいけないんだ。もしどうしようもないほどに苦しいことを受けとめるのは、ぼくらまのらがやるべきことなんだ。そのためにぼくたちは、こんな優しいふわふわぼでーに生まれてきたんだから」
 どこにあるか分からない胸を張って堂々と言う姿に、功利は情けなくなった。
「それも、いけないだろ」
「ん?」
「イライラしたり苦しいことを、何かにぶつけるなんて駄目だろ。傷つくだろ。おまえたち、まのらだって」
「まのらは傷つかない」
「……あんまり人間を、甘やかすなよ」
 日々、スマートフォンやテレビジョンで見られる情報は焦りと苛立ちを拡大させるものばかりで、多分終わりは来るのだろうけれど、来たらきたらでどうなるかなんて分からなくて。それこそ行き場のない怒りが全身を這い回る。だけどぐるぐる回る感情をどこに持っていけばいいのかも分からないまま、いつしか最後に笑ったのはいつだったかなど思う瞬間がある。気がついたら、寝て、食べて、不機嫌な会話を一言二言交わすくらいだ。
 だからって。こんな生き物にぶつけたってどうしようもないだろう。
 すっと、まのらが手に触れてくる。膝丈しかないのに、足を伸ばすことすらほとんどできないのに。
 触れたまのらの手はふんわりと干し立ての布団の感触だった。
「そんな君だから、お姫様は会いたいんだって。あ、でもね。ここにてっぱんどうせんかではないよ。お姫様は、たいせつだから、おひめさま」
「絶対王政がなんでてっぱんになる」
「ちょっとした翻訳の間違いくらい許してよ」
 そうして、功利はまのらの丘を目指して進む。
 丘の上の切り株の上には、これまで見てきたまのらより大きな、ピンク色のリボンをつけているまのらがいた。



 まのらのお姫様は切り株から下りると、深々と礼をした。
「この子、立派なまのらなの。まのら、この方を連れてきてくれてありがとう」
「いえいえ。じゃあ、あとはお姫様」
「ジャムを食べていていいわよ」
 まのらは丘の上の小屋に入っていくと、小さな瓶を持ってきて、切り株の横に座ってスプーンでジャムを食べだした。人間の子どもがしたら親に怒られそうな光景だ。
 功利は姫に向き直ると、聞きたかったことを聞く。
「あの、まのらってなに」
「そうね。たとえるなら……スポンジかしら」
「は?」
「人の心の苦しみを吸収して、拭いて綺麗にしてくれる。それがスポンジでしょう?」
 確かに。
「人が争いで疲れたときに現れる、ちょっとした緩衝材。それがまのらよ」
「それでいいのかよ? あんた、大切な仲間たちが人間に虐げられているのに、それが役割だって、言うのかよ」
「言いますよ。怒るあなたこそどうして? どうして、まのらが傷つくことに怒るの? あなたとまのらはこれまで関係なかったでしょう」
 姫が言うことに、言葉を呑み込みかけるが、強引に吐き出して言ってやる。
「腹立つんだよ。どうしようもないからって、こんなふわふわもこもこした存在に、投げつけるってことが」
 傷つかないなら、殴っても良いのか。詰っても良いのか。それを肯定するのは人として浅ましい行為だ。
 姫はじっと功利を見つめる。
 睫の長い目を揺らさないまま、静かに言った。
「ねえ、あなたの世界は終わりそう?」
「まだ終わってはいないけど。でも……いま、感染症で十五万人ほど亡くなっている」
「それだけの、それ以上の悲しみと苦しみと恐怖を。人だけで抱えるのは苦しいわ。だというのに、あなたが私たちの役割を否定するというのなら。絶対に負けないで。まだ、日常を守ろうと戦っている人たちがいるのに、気持ちすら負けたら駄目だから」
「俺に何ができる」
「まずは、できないと思うことを止められるわ。掃除をして、換気をして、過ごしやすいおうちを作って、歌を口ずさむ。絵を描く。刺繍をする。知りたかったことを知る。ううん、なんだって良いの。大切な人の助けになることと、創造することを止めないで」
 それは、いままで功利が目をそらしていたことだ。


 ベッドから起きる。
 窓を、開ける。風に揺れるカーテンの向こうには眩い青空が両手を広げている。
 だけどいけない。まだ、そこにはいけない。
 自室の扉を開けて、テレビを見ている母親に声をかけた。
「なあ、掃除していい?」
 「珍しいわね」などと言いながら、どこに何があるかを説明されて、功利は歩きだす。
 その後ろをまのらはてちてちとついてきていた。

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